偉人の名言

2013年2月12日 (火)

あなたの名言は?

 先月のある日の泉弥の学校の宿題に、プリントに書かれたたくさんの名言・金言の中から好きな言葉や座右の銘にしたい言葉を1つ選び、ノートにその言葉と選んだ理由を書くというのがありました。コタツに入り、プリントを眺めながらブツクサ言いどれを選ぶか悩んでいる様子を、最初は面白がって見ていたのですが(・∀・)ニヤニヤ、ついに泉弥が父に、

 

 「ねぇパパ、パパはこっちとこっち、どっちが良いと思う?」

 

 と聞いてきました。悩んでいた名言は次の2つ。

 

 ・ 強い者が勝つのではない。勝った方が強いのだ。

 

 

 ・ 諦めたらそこで試合終了だよ。

 

 ということで、他にもたくさんの勝負事以外での名言も並ぶ中、一応は柔道という勝負の世界に身を置いている子らしい名言を選び、どちらにするか悩んでいた泉弥。父は、

 

 「どちらも選べないんだったら、両方ノートに書けばいいが。」

 

 と答えましたsmile どちらも良い言葉で励みになる言葉だと思います。泉弥は結局、1番目の

 

 ・ 強い者が勝つのではない。勝った方が強いのだ。

 

 という言葉を選んだようですconfident 泉弥が選んだ言葉は、「何事も最初から諦めるな。」というメッセージが込められた言葉だと思いますが、同時に、「勝負事に言い訳は無用。」という厳しいメッセージでもあると思います。

 

 勝負の前に、相手の名前を見て柔道を変えてしまう子、負けた後にあれこれ言い訳をかます子、そういえばどっかにいたなぁ・・・sweat02 あっsign03 うちの長男坊か・・・coldsweats01 

 

 皆さんにも、人生の支えにしている座右の銘があると思いますhappy01 泉弥にも、今回自分で選んだこの言葉を大切に、これからの人生の支えとして精進してもらいたいものです。

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2013年1月18日 (金)

心正しからざれば・・・

 幕末の剣士で、島田虎之助という人物がいます。島田は 男谷信友、大石進とならび「幕末の三剣士」と言われたそうです。その島田虎之助が残した名言、

 

 「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」

 

 というのがあります。島田虎之助が、かの新撰組・土方歳三に向かって一喝した言葉だそうです。

 

 当時、京都守護として警備を担当していた新撰組、ある時、命により大菩薩峠という場所で、甲源一刀流、清川八郎を乗せた駕籠を襲いました。この時の新撰組を率いていた責任者が土方歳三。しかし駕籠に乗っていたのは目的の清川ではなく島田虎之助。襲いかかった2名の新撰組員はあっという間に切り倒されました。土方歳三は、駕籠に乗っていたのが島田虎之助という大剣士だと気付き、しまったと叫びましたがその瞬間、島田に押さえつけられこのように言われました。

 

 「汝が主謀と見ゆる。心なくもこの島田に無益な殺生をさせた。貴様も部下をむざむざ犬死させてなんと言い訳するつもりか!この愚か者!!」

 

 そして続けてこう諭したというのです。

 

 「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ。」

 

 一流剣士らしいエピソードです。あの有名な土方歳三を怒鳴り諭すというのですからさすがですねcoldsweats01 剣だけでなく何事も同じだと思います。何か事をなすときは、常に心を正しく行わなければならないものだというのを教えてくれているようです。

 

 柔道にも同じように、「精力善用」という教えがありますが、丸岡の子供たちも柔道を学ぶにあたり、島田虎之助の言葉と同じように、まずは「心」を学べる少年柔道家であってほしいと願いますhappy01

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2010年10月16日 (土)

トーマス・エジソン

 トーマス・エジソンの有名な名言に、

 

 「天才とは、1%のひらめきと99%の努力だ」

 

 という言葉があります。これは一般的には、物事を成し遂げるにはひらめきは1%だけでよい。99%の努力が必要だということで、努力の大切さや尊さを説いた言葉と解釈されています。当然僕も、今まではこのように思っていました。

 

 しかしある本を読んでこの解釈が間違いだということが分かりましたcoldsweats02 エジソンは、この言葉の解釈について実は次のように話をしていたのですthink

 

 「私は、1%のインスピレーションがなければ、99%の努力は無駄になると言ったのに、世間は私の言葉を都合の良い美談に仕立て上げ、私を努力の人と美化し、努力の重要性だけを成功の秘訣と勘違いさせている。」

 

 なるほどsign03 ですよねhappy01 では、努力が成功の秘訣ではないとすれば、1%のインスピレーションって一体なんなんでしょsign02 これについてもある作家がおっしゃっていました。

 

 「エジソンは、電球が絶対にできると信じていたのではないでしょうか。1%のインスピレーションとは、この『絶対にできる』という確信ではないでしょうか。絶対にできると信じていたからこそ、完成した時の喜びがイメージできた。だからこそ努力し続けることが出来たんでしょう。」

  

 と。なるほどsign03 

 

 そしてまた、絵の作家さんとして天才的な才能を発揮されているジミー大西さんはこのようなことをおっしゃっておられます。

 

 「あれは誰かが和訳を間違えたんですよ、きっと。エジソンはきっと努力なんかしていないはずです。楽しんでいたと思うんですよ。だから、正解の和訳は『1%のひらめきと99%の遊び心』です。だって、世の中の誰が99%も努力なんかします?きっと誰も出来ないですよ。エジソンは、何度も失敗して失敗して、でもその失敗を楽しんでいたと思うんですよ。」

 

 と。なるほどsign03 

 

 毎度毎度、偉人の名言のたびに無理やり柔道に結びつけちゃいますがcoldsweats01 でもこれは柔道も同じなのかもしれませんね。絶対にできると信じて練習しなければ、ただ何も思わずやってるだけでは上達はしないと思います。そしてそれは、成功をイメージできるぐらいの強い自信でなければダメだと思います。これ+柔道が好きでないとダメだということは言うまでもないことだと思います。なので両方の作家さんの言葉がなるほどと思えてきますhappy01

 

 僕は、エジソンはやっぱり努力の人なのだと思います。でも彼が普通の人と決定的に違うのは・・・ 次から次へと発明ができたのは・・・その努力すらも楽しめた人だからではないでしょうか。きっと物を発明することが本当に大好きだったのでしょう。だからその過程での失敗も楽しめたのではないでしょうか。イチローも同じだと思います。彼のあの殺人的な体調管理や練習メニューは「努力」以外の何ものでもないはずですし、この殺人的な努力を続けられるのも、成功をイメージできる強い心(ひらめき)と「野球が好き」という気持ちが人よりはるかにあるからではないでしょうか。

 

 エジソンがいなくとも、それでもきっと誰かがいずれ電球を発明していただろうし、現代の暮らしが大きく変わっていたとは思えません。しかし、その「最初の一人」になることが、どれだけ困難で大変なことかぐらいは想像が付きます。イチローが今年成し遂げた、10年連続シーズン200本安打は史上初とのこと。。。初めての人になるのは本当に想像を絶する大変さなのでしょうthink

 

 スポ少のみんなにも、エジソンのように成功を強く確信できる強い心と、柔道を心から楽しめる柔道家になってほしいと思いますhappy01 きっとそのための「丸岡柔道」のスタイルなのではないでしょうか。。。

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2010年3月26日 (金)

飛鳥時代(後編)

 もうお忘れかもしれませんがcoldsweats01 前回、飛鳥時代・前編の続きです。大化の改新ですが・・・

 

 大化の改新の大きな目玉としては・・・

① 今回の蘇我氏のように一人の大臣に権力を集中させることが無いよう、左大臣右大臣内大臣という3人の大臣を置くようになった。

② 東国の戸籍調査や田畑の調査を行い、政府の収入の安定を図った。

 

 ということが挙げられます。こうして着々と中央政府の力を強めていき、大化の改新を行った孝徳天皇の跡を継いだのが中大兄皇子でした。天皇即位後、天智天皇といいいました。百人一首の一首にも詠まれている、

 

 秋の田の 刈り穂の庵の苫をあらみ 我が衣手は露に濡れつつ

 

 という歌を歌った万葉歌人としても有名な天智天皇happy01 ですが、外交面で朝鮮政策に失敗してしまいますsweat01 白村江の戦いに敗れてしまったのです。その後は、朝鮮からの脅威に備えるため、自国の防備に力を注いでその職務を終えました。

 

 天智天皇の没後、またしても後継者争いが勃発しましたsweat02 天智天皇の息子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子が争いを起こし(672年・壬申の乱)、その結果、天智天皇の弟・大海人皇子が勝利して天皇に即位しました。天武天皇といいました。この天武天皇からはしばらくは、天武天皇の直系が天皇を歴代していきますが、途中、再び天智天皇の系列が政権奪取を果たし、やがて平城京遷都(710年)を迎えます。平城京とは、いわゆる「奈良の都」で、中国の長安を参考に作られた都だと言われています。遷都を敢行したのは元明天皇です。

 

 この大化の改新から平城京遷都までを飛鳥時代後期と捉えるのが一般的なようで、前期が奈良県明日香村を中心として飛鳥文化が栄え、この都を「藤原京」と呼んでいました。後期は奈良県奈良市がその中心で「平城京」、白鳳文化が栄えた時代です。

 

 これで飛鳥時代は終わりです。次は、さらに変化の激しい時代、そして日本文化の象徴でもある「平安時代」のお話になります。

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2010年3月 7日 (日)

飛鳥時代(前編)

 日本の歴史第3弾sign01 前回の古墳時代から時代は移り、今回は飛鳥時代のお話しですhappy01

  

 飛鳥時代とは、一般には6世紀末から8世紀初頭までの約100年~110年の期間を指しますが、これも諸説あります。しかし学校で習っているのはおそらく、推古天皇の時代の飛鳥文化、天武・持統天皇の時代の白鳳文化が隆盛を極めた時代を飛鳥時代と呼ぶ、と習っているのではないでしょうか? 政治的に言うと、推古天皇の天皇即位から710年の平城京遷都まで、ということになると思いますhappy01 都があったのは現在の奈良県明日香村あたり。この飛鳥時代には、日本にとっては大きな転換期となる出来事が多く起きていますsign01



 古墳時代の末期、大王(天皇)の力は衰えていき、次第に連(むらじ)という豪族が権力を振るうようになってきました。そのころの大王は、地方の行政を任されていた国造(くにのみやつこ)と呼ばれた地方豪族達との連合政権を保ってはいましたが、チカラのない名ばかりの政権であったのは言うまでもありません。



 そんな中、大連(おおむらじ)という地位にいた物部守屋と、大臣(おおおみ)という地位にいた蘇我馬子が対立し戦いとなりましたdanger 西暦587年の出来事です。この戦いで聖徳太子は蘇我馬子側につき、物部守屋を滅ぼしました。そして聖徳太子は皇太子に立てられ、日本史上初となる女帝・推古天皇を擁立し即位させました。聖徳太子は自らも摂政という要職に付き、蘇我馬子と協力して天皇中心の理想の中央集権国家の設立に力を尽くしました。



「冠位十二階の制度」 「十七条憲法」



といった有名な政策を実現させ、国家の礎を築くことになりますscissors そして607年、小野妹子を使節団長とする遣隋使を中国の隋に派遣し、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という有名な上表文を送ります。



 推古天皇の時代、日本は大陸から伝来した仏教が各地に広まり、飛鳥文化という大きな文化が花開くことになりますwink  法隆寺・五重塔(聖徳太子建立)、飛鳥寺(蘇我馬子建立)などの建築物は有名ですscissors  聖徳太子は特に仏教に深く帰依し、広く国民に伝えようとしていました。聖徳太子の有名な言葉に「世間虚仮 唯仏是真」という言葉があります。この世のもの、出来事は全て幻、まやかしだらけ。ただ一つ、仏のみが信じられる真のことである。という意味だそうですthink  仏門の世界も、自分には全く分からない難しい世界のようですcoldsweats01  僕にしてみたら、この世の出来事こそが真実で全てだど思うんですけどねぇcoldsweats01

 

 さて、話は戻りますが、聖徳太子が活躍した推古天皇の時代、推古朝は平和な時代だったようですが、やがて621年に聖徳太子が没し、続いて蘇我馬子が626年、推古天皇も628年に没すると、36年に亘った推古朝が終わりました。


 こうくると当然coldsweats01  次に待っているのは後継者争いと権力争い・・・danger いつの時代も同じですねcoldsweats01  蘇我馬子の子・蘇我蝦夷(そがのえみし)と孫の入鹿(いるか)が権力を握ろうと横暴を極めるようになりました。それに対し、聖徳太子の子・山背大兄王(やまのせのおおえのおう)か争い、やがて聖徳太子の一族は蘇我氏に滅ぼされてしまいますsweat01  これにより蘇我氏が実質的に飛鳥王朝の権力を握るようになりましたが、これでは皇族が黙っていませんthink 中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を殺害するというクーデター事件がおきましたimpact (乙巳の変) そして翌年、新たに天皇に即位した孝徳天皇が「大化改新」の詔を発し、次々と政治改革を行っていくのでした。



 飛鳥時代の後編へ続く。

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2010年1月31日 (日)

古墳時代

 前回、弥生時代に登場した「邪馬台国・卑弥呼」の記事を掲載しましたが、今回はその続きで古墳時代のお話です。僕らの世代では、この時代を「大和時代」と習っていたのですが、現在ではこの呼び方はほとんどされず、学校で子供たちが習うのも「古墳時代」という呼び名です。これはこの時代に、大阪府堺市に現存する「大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)」に代表される「前方後円墳」などの古墳が多数作られていたことに由来するそうです。ちなみにこの古墳は、日本最大の古墳としても有名ですscissors

 この古墳時代には、弥生時代を経て邪馬台国をベースに成立したと考えられている「大和統一国家」が誕生し、大王(おおきみ)と呼ばれる天皇の統治による国家が誕生しました。古墳時代を世紀で表すと、紀元後3世紀後半から6世紀終わり辺りのことになります。わが国の初代天皇「神武天皇」と古事記や日本書紀に記されていますが、これも含めて初期の天皇は実在の人物ではなかったようです。確実に実在したと分かっているのは、実に26代目の天皇からだそうです。しかし、大和国家が確かに存在し、大きな権力を持って隆盛を極めていたのは間違いのないことのようです。

 

 

 

 しかしこの時代(大化の改新以前)の大王は、大和国家の中で権力者としての絶対的地位を持っていたわけではなく、地方の有力豪族(前回の記事で紹介したような、貧富の差により支配者になっていった者達)による連合政権の色が濃かったとのことで、大王自らも幾多の戦場で実際に剣を持って戦っていたという記録も残っています。この時代の有力豪族として有名なのが、蘇我氏(そがし)や物部氏(もののべし)・大伴氏(おおともし)といった、みなさんも聞いたことのある名前の豪族たちです。彼らは、「氏姓制度」と呼ばれる制度によりランク分けされており、氏姓を名乗ることを許された豪族たちです。彼らは後の鎌倉・室町時代には「貴族」と呼ばれるようになります。

 

 

 

 ランクとしては、「臣(おみ)、連(むらじ)、国造(くにのみやつこ)」などに分けられ、蘇我氏は最高ランクの臣、物部氏や大伴氏は連となります。

 

 

 

 やがて、天皇も代を重ねていく中で、当然のことながら暗君と呼ばれる無能の天皇や、私利私欲に走る暴君が現れるようになります。そうすると、権力を持った有力豪族(臣・連ランクの豪族)や不平を抱いていた地方の豪族(国造ランクの豪族)が反乱を起こすようになり、やがて天皇の力は衰えていくことになります。

 

 

 

 こうして古墳時代は終わりを向かえ、やがて聖徳太子らが活躍する飛鳥時代へと移り変わっていきます。

 

 

 

 つづく・・・

 

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2010年1月18日 (月)

卑弥呼

 今回の記事は、偉人の名言というわけではないのですが、昨年流行した言葉に「歴女(歴史好きの女子)」という言葉があるように、最近巷ではひそかな歴史ブームが起きているようですcoldsweats01 そこで文武両道を目指す当ブログとしてはbleah 暇な期間を利用して歴史のお勉強を少し書いていきながら、そこに活躍した偉人の名言を引っ張り出していこうと(急に)思い立ちました。興味のない方は是非スルーしていただきたいのですがcoldsweats01 もし小・中の子供たちが読んだ場合は、最後まできちんと正座して読むようにしてくださいhappy01

 

 まずは日本が国家として成り立ってきた紀元後3世紀あたりから話を進めていきたいと思いますhappy01 

 

Kome1 その前に・・・・・3世紀以前の日本はというと、弥生時代に中国から伝来したとされる稲作が始まり、これにより貧富の差というものが出来てきました。(もっとも、現在の研究では稲作が日本に伝来したのは更に時代をさかのぼり、縄文時代辺りだというのが確実らしいのですが) 貧富の差が出てくると当然、次に支配者というものが現れるようになります。これによりこの時代には100以上もの小国が出現し、それぞれが国家を成していたとされています。これらは同じ時代の中国、漢の国に残っている「漢書」というものに記録されいたようです。そしてその小国同士が戦争を繰り返し、3世紀頃には邪馬台国という国家が日本を統一し存在していたという説があります。これも同じく漢の国の書物、「魏志倭人伝」に記されています。

 

 この時代の中国の漢という国は、前漢と後漢とに分けられ、後漢の初代皇帝は光武帝と言い、「柔よく剛を制す」というあの柔道でも有名な名言を残したとされる人物であります。倭の奴国の王に金印を送ったとされるのもこの光武帝です。また、そんな漢が滅亡を迎えようとする頃、中国では「三国志」で有名な戦国時代に突入しました。邪馬台国とはそんな時代のお話です。

 

 邪馬台国は卑弥呼という女王が統治していたという記録が残されています。しかし、邪馬台国・卑弥呼ともに現存したという確証は、現在もなお得られていません。なぜなら、これらの記録は中国の書に多く残されており、なのに日本に残る書にはほとんどその記録が残されていないからです。明らかとされるのは、4世紀に入り大和国家が日本を統一し隆盛を極めたというところあたりからだそうです。卑弥呼の特徴として知られていることも当然少なく、女で独身、巫女、弟がいて、死後に大きな塚に葬られたというところぐらい。。。

 

 これほどお隣の中国が大きく取り上げるべき国家であった邪馬台国・卑弥呼の記録が、日本でほとんど残されていないというのも不思議な話だそうです。そういうところから、邪馬台国は日本を統一するような大国ではなく、九州の一小国だという説も浮上しています。しかし、これも確証を得るには至っておらず、今のところ学校で子供たちが習っているのは、皆さんご存じのとおりの邪馬台国と卑弥呼です。いまだベールに包まれたままの邪馬台国と卑弥呼。日本列島で初ともいうべき古代統一国家の真の正体に思いを馳せ、当時の人の暮らしぶりを想像してみるのも悪くありませんねhappy01

 

 弥生時代のテストのポイントは、

 

 「稲作の伝来」「高床式倉庫」「金属器・弥生式土器」「貧富の差の出現」あたりでしょうか・・・。そして貧富の差の出現により小国乱立→邪馬台国→大和国家へと繋がっていくのです。

 

 次回へ続く。。。(更新日は全然未定です)

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2010年1月 6日 (水)

坂本龍馬

 新年1発目の偉人の名言は、もちろん今年の大河ドラマにも決定した坂本龍馬ですhappy01 文武両道の丸岡スポ少sign01 今年も気が向いたときに、ちょくちょく「偉人の名言」シリーズも書き込んでいきたいと思いますhappy01

 

 さて、坂本龍馬といえば・・・

 

 幕末に活躍した志士でありますが、主に「海援隊」の結成「薩長連合」の斡旋、「大政奉還」に尽力した人物で、近代日本形成の先駆けとなった人物です。

 

 海援隊とは・・・坂本龍馬が中心となって作られた貿易会社のことで、日本初の株式会社と言われています。資本については当時の薩摩藩が出資していたようです。

 薩長連合とは・・・薩摩藩と長州藩の間で結ばれた、政治的・軍事的同盟のことですが、幕末当時の薩摩藩と長州藩は、倒幕という点で思想は共通していたものの、幕末期のいろいろないざこざで心情的には大きく敵対している関係でした。それを第三者(土佐藩出身)の坂本龍馬の尽力により、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らを説得し、同盟関係まで漕ぎつけた。これにより倒幕への波が大きく動くことになりました。

 大政奉還とは・・・ご存じのとおり、250年以上も続いた江戸幕府が倒壊した事件であり、時の第15代将軍・徳川慶喜が天皇に統治権返上を上奏したもの。

 

 これら坂本龍馬の功績は、明治・大正・昭和・平成へと続く近代日本への足がかりとなったことは間違いありませんが、250年以上も続いた江戸幕府へ「NO」を叩きつけようとしたそのパワーは、当時の社会からすると相当のエネルギーだったことは想像できます。おそらくは、今回の日本の政権交代、民主党が政権を奪い取ったそれとは遥に比べものにならないくらいのエネルギーだったことでしょう。きっと当時では坂本龍馬を変人扱いした人も少なくないでしょうsweat02 そんな龍馬の名言として

  

 「世の人は われをなんともいはばいへ 

  わがなすことは われのみぞしる」

 

 という言葉があります。当時の本人に対する風当たりがきつかったことが分かりますね。しかし、そんな風当たりに負けない自信・意志がしっかり感じられる言葉です。また、この意志の強さを表すもう一つの名言がこちらです。

 

 「いったん志を抱けば この志に向かって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱音を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。」

 

 こちらも力強い言葉です。坂本龍馬の人柄を表わすのに、一番分かりやすい言葉かも知れませんhappy01

 

 今年の丸岡スポ少も、先生方の信じる柔道に対する思いをみんなで信じ、弱音を吐くことなく目標に向かって邁進して行きたいものですhappy01

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2009年9月17日 (木)

武田信玄

 いきなり、久しぶりの偉人の名言ですが、これは一体誰の名言でしょうか?・・・って答えは題名に書いてありますがcoldsweats01 きっと皆さんも一度は耳にしたことのある言葉だと思いますhappy01

 

 人は城 人は石垣 人は堀

 

 情けは味方 仇は敵なり

 

 訳すると・・・

 

 どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる

 

 というもの。

 

 武田信玄といえば、甲斐の国(現在の山梨県)の守護大名。晩年には、甲斐のみならず信濃(現在の長野県)・駿河(現在の静岡県東部)も治めた大大名ですね。武田の騎馬隊は戦国一と呼ばれ、まさに戦国最強の武将だったのかもしれません。同じく戦国最強との呼び声の高い、上杉謙信との川中島での死闘は有名です。

 

 彼は死を目前にして京への上洛を目指し、三方が原にて後に天下統一を果たした徳川家康を子ども扱いにして破り、その強さを改めて世に示しました。武田信玄があと5年長く生きていたら・・・すでに起こってしまった歴史に「たら・れば」はありませんがcoldsweats01 そんなⅠfを思わせてくれる数少ない武将であります。

 

 信玄は上の名言のとおり、生涯、新たに自国内に城の普請はせずに、自身も「躑躅が崎の館」と呼ばれる館に居を構えていました。甲斐・信濃・駿河3国を治める大大名だったにも拘らず・・・です。そしてその代わり、家臣・領民への心配りも相当なものだったようです。

 

 また、名言の終わりの部分の、情けは味方 仇は敵なりという言葉どおり、戦に際しては次のような言葉も残しています。

 

 およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は、五分は励を生じ、七分は怠を生じ、十分は驕を生じるが故。たとえ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり

 

 付け加えるなら、勝ちすぎて恨みを買うようなことはせず、程ほどに勝って戦果を挙げるのが戦の上策だ・・・ということでしょうか。

 

 世当たり上手でも有名な武田信玄らしい言葉かもしれません。

 

 

 しかしsign03 スポ少の柔道は話しが別ですsign03sign03 もちろん、人と人との繋がりを大切にする、といったところでは共通しますが、柔道の試合は五分の勝利で満足せず、勝って勝って十分の勝利を目指して頑張って欲しいものですhappy01 もちろん、信玄が指摘するように驕ることなく練習も一生懸命ですがwink

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2009年1月22日 (木)

ルイ・アームストロング

 久しぶりの偉人の名言sign03 またまた的外れで突然なのですがcoldsweats01 今回は「ルイ・アームストロング」について少々・・・とはいっても、僕は実際を全く知りませんのでcoldsweats01 全てサッチモファンの受け売りです。

 

 ルイ・アームストロングといえば、皆さんご存知のとおりジャズの神様sign03 有名で優秀なトランペッターであると同時に、素晴らしいジャズシンガーでもあります。まさに20世紀を代表するジャズミュージシャンですよねhappy01

 

 本名は「ルイ・ダニエル・アームストロング」

 愛称は「サッチモ」(がま口のような大きな口という意味)

 

 彼の代表作といえば・・・

 

 「この素晴らしき世界(WHAT A WONDERFUL WORLD)

 

 

 これは彼が66歳のとき、アメリカがベトナム戦争で泥沼に入り込んでいた、まさにその時に歌われた歌だそうです。当時のアメリカの兵士達は、この歌を聞きながら戦地へと赴いたとのこと。そういう背景を頭において、この歌の日本語訳を読んでみてくださいhappy01

 

  木々の緑  赤く萌える薔薇

  咲くのが見える  貴方と私のために

  そして私は1人つぶやく

  “何て世界は素晴らしいのだ”

 

  紺碧の空  純白な雲

  輝くように晴れた日も  神秘的な夜も

  そして私は1人つぶやく

  “何て世界は素晴らしいのだ”

 

  七色の虹が  空に美しく映える

  通りゆく人々の上にも輝く

  握手を交わす人々  「はじめまして」と挨拶している

  けど本当は「愛しています」と言っているのさ

  

  赤ん坊の泣き声  彼らが育つのを見守ろう

  彼らは私の想像以上に 多くを学んでいくだろう

  そして私は1人つぶやく

  “何て世界は素晴らしいのだ”

 

 

 というような内容です。繰り返しになりますが、これはベトナム戦争真っ只中に兵士達に好まれて歌われていた歌だそうです。どんな思いで歌っていたのでしょうか。

 

 また、サッチモ自身も生まれは決して幸福ではなかったようですsweat02 父は誰か分からない。母も身売りをしていたらしく、小さい頃から親戚に預けられていたそうです。発砲事件を起こし、少年院にも入っていたようです。(決して人を狙ったのではなく、興味本位だったそうですが)

 

 また、彼の生きた時代は人種差別も酷く、本人も随分ショックを受けていた時期だったそうです。実際に、黒人の暴動を激しい暴力で制圧している白人警察官の姿を見て、大きな衝撃を受けた・・・との記録も残っています。

 

 それでも、「世界は素晴らしい」と、あんなに感情豊かに歌えるのは、まさに「神様」と言うに相応しいと思います。貧しく不幸な子供時代にあっても、それを乗り越え、きっと明るく楽しく生きようとしていたのでしょうね。。。そして少年院時代に出会ったという、コルネット(トランペットに似た楽器)が彼の人生を変えたのかも知れません。

 

 最後に彼の名言ですhappy01

 

 「私の人生はいつも音楽だった。いつも音楽が最初。でも、音楽は一般の人々に理解されなければ何の価値もない。お客さんのために生きる。人々に喜んでもらうために私はいる。

 

 

 いつも強引に柔道に結び付けてしまいますがcoldsweats01 柔道も同じで、柔道を全く知らない人にも理解してもらえるものでなければならないと思いますsign01 スポーツは全てそうだと思いますが、初めて見る人にも感動してもらえる、面白く見てもらえるものでなければ意味がないように思います。でなければ、何のために「スポーツ」が存在するのか??

 

 柔道は、単にスポーツとは言えない多くの素晴らしい精神がありますので、一概に「ショー」とは言い難いですが、それでも僕は素人が見ても面白いものでなければならないと思います。ましてや勝敗の分かりにくいスポーツでは・・・coldsweats01 

 

 レベルの高い・低いではなく、少年柔道からオリンピックに出場するような選手の試合まで、どのレベルの柔道でも同じだと思います。日本代表選手の柔道だって、やっている本人や周りの一部の関係者だけで、「勝った・負けた」と騒いでいるだけなら、国民は誰も応援なんかしません。見ている側にも柔道の素晴らしさが分かってこそ、心から応援できるのではないでしょうか??これは勝手な僕の考えですが・・・coldsweats01

 

 さて、随分と偉人の名言からは話題がズレてきてしまいましたのでcoldsweats01、次回はこの話に付随して、ある面白い・そして柔道という競技について考えさせられた出来事を書いてみたいと思います。

 

 

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